先日、伊勢湾台風にも匹敵すると言われる台風が日本を襲った。

私は幸運にも愛知県に住んでいたため、停電も氾濫も洪水もなく杞憂に終わった。台風の西側に位置した地域においては拍子抜けするほど被害が少なかったかもしれないが、東側では想像以上の被害が出ている。停電や川の氾濫により避難を強いられている人たちに関しては、一日でも早い復旧を願うほかない。

台風は、色んなものを壊していった。家・車・道路・人・その他諸々の雑貨…もしもこれが自然現象ではなく人間によってなされたことならば、その人間は間違いなく「悪」と断罪され、大きな罰を背負わされたに違いない。

しかし、一方で、台風は大きな経済効果を生んだ。

まず、事前のニュースによって人々は大きな恐怖に陥り、食料や防災グッズが飛ぶように売れた。店の棚からごっそりパンやカセットコンロがなくなっているのを実際に見たし、新聞でもその売れ具合が大きな話題となった。

加えて、先程書いた家や車などの破壊。破壊は経済的損失でもあるが、同時に新しい家や車に対する需要も生んでいる。消費税増税のためすぐに個人消費が増えるとは限らないが、企業の消費は絶対に増えるはず。新幹線や車などの部品を作る中小企業などは、仕事が増えて大いに潤うと思われる(それ以上に人手不足が深刻になるが)。

経済効果を生んだという意味では、台風は「善」と言えなくもない。


ここで問題提起。

昭和の時代においては、物が圧倒的に足りなかった。だから、物を作れば作るほど売れたし、ものを破壊する存在は絶対悪としてとらえることができた。

しかし、令和の時代は物余りかつ資本主義の時代。物を作っても確実に売れるとは限らず、無駄なものであればお金をもらってもいらないと言われる時代。令和では「物の破壊」を絶対悪とは断言できない。

資本主義とは「物不足」が大前提であり、物を破壊する存在は「物余り」から「物不足」に導く存在である。資本主義社会にとってはありがたい存在とも言える。

果たして、令和において「物を破壊する存在」は善か悪か?

そういう疑問が出てくる。


自分なりの回答を述べておくと、物を破壊する存在は「道徳的には悪だが経済的には善」という結論になる。あるいは、「短期的には悪だが長期的には善」とも考えられる。つまり、絶対善か絶対悪かの2択(二元論)では語れない。

まぁ、道徳が重んじられる日本だと、悪よりになるのかな、というくらい。

一方で、日本は経済的に長く停滞している国でもある。「失われた30年」と呼ばれているが、これが「失われた40年」にならないとも限らない。今後、経済よりに物事を考えなければ経済状況は更に悪化するであろう。

経済を考える上で、重要視しなければならないのが「破壊」だ。

スクラップ・アンド・ビルドが謳われるように、台風や地震など「物を破壊する存在」についての考え方を、今後改めなければならない日が来るかもしれない。

ただし、この考え方が行き過ぎると「戦争は経済的に善だからやるべき」という暴論にもなりかねない。一応、この考え方は正論でもある。日本の高度経済成長は、その前の戦争で日本が「破壊」され一面焼け野原になったからだとも考えられる。

ちょっと前にあったEテレ「100分で名著 戦争論」でも同じような考えがあった。


さすがに人間による破壊は悪とせざるを得ないが、自然による破壊ならばどうだろう。

自然による破壊ならば、責任をうやむやにしたまま破壊ができる利点もある。台風や地震相手に訴訟はできないのだから(人災による2次災害はまた別)。

災害大国と呼ばれる日本、短期的に見れば不利な立場だが、長期的な立場で見ればプラスになり得るのかもしれない。
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